俳句リスト
この句は、「野ざらし紀行」の旅の折、貞亨元年の晩秋に大垣の俳人木因と共に本統寺第三世大谷琢恵(俳号古益)に招かれた際、一夜を過ごして詠んだといわれている
木因は谷木因といい、美濃大垣の俳人で蕉門の一人。奥の細道をおの旅を終えた芭蕉を大垣より長島へ送ったことで有名。芭蕉とは大変親しかった。なおこの句碑は名四国道開通に際して建立された。
誓子がかつて病気療養のため富田にしばらく居を移していた時、今は枯死した有名な一本松を詠んだものである。『誓子句碑アルバム』の中に句意を表す一文がある。句碑は富田保勝会によって富田一本松の橋のたもとに建立され自筆の書で刻まれている。
其角の句碑は県下には少ないが当地の名物焼き蛤を詠んだものとして広く親しまれている。生川益也著の『富田をさぐる』の中に、その句が詠まれたときの様子と考えられている場面が記述されている。
小波は16歳で『かちかち山後日譚』『一珍可笑夢』を創作し活躍した人物であり、明治期の児童文学の第一人者である。彼は旅を好んだ。日記によると、昭和5年に富田町の伊藤吉兵衛を訪ねた際、富田浜に遊びこの句を詠んだとされている。
凡平によると、『江戸時代にこの寺の裏山が崩れそこにあった芭蕉の句碑も一緒に埋没した』とされている。現存するこの句碑は昭和45年(48年)に本堂改築に際し裏山の整備により発見されたものである。
この句は、『大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。』というように山頭火が味取観音堂を飛び出し、あてもないさすらいの旅に出たときのもの。この句にあるのは、旅への決意、というよりも、むしろ目的なき旅へのとまどいが表現されている。
白子の海岸に住んでいた頃に作品で、『鑑賞の書』には、その海岸の風情を表した一文がある。誓子は、妻の山口波津女とともに昭和23年から28年まで舞子館南約300メートルのところにあった海荘に住んでいた。
門人・支考の俳諧撰集『笈日記』には「住吉の市に立て・・・」の前書きから、芭蕉が住吉明神に詣でての作品。元禄7年、長谷川畦止亭の会に招かれた時に月見をかねて住吉の宝の市に出かけ詠んだ句。ふと興に乗じて一合升を買った芭蕉だが体調を崩し畦止亭の13夜には参加できなかった。
寛文11年春の作。花見の衣として甚兵衛羽織を着てもみよ、の意。来てと着てをかけている。『貝おほひ』に収録。『貝おほひ』は三十番発句合せに自ら自詞を加え産土の天神に奉納したもの。後江戸で出版され、芭蕉の唯一の刊行著作となった。
貞亮5年の作で、『笈日記』『笈の小文』(おいのこぶみ)などに「おなじ年の春にや待らむ故主蝉吟公の前庭にて」と前書きがあってこの句が載っている。若き日の芭蕉は藤堂藩伊賀附の侍大将藤堂新七郎に仕えたが、その家嫡良忠は蝉吟と号し貞門俳諧を学ぶ文学武士であった。
碑文にはレーガン大統領の署名がある。この句は貞亨5年秋の作。『笈日記』に「その年の秋ならん、この国より旅立て 更科の月みんとて」とある留別の四句の一句である。貞亨5年秋の作。
貞亨4年12月に芭蕉が郷里に帰ったときの吟で、『千鳥掛』中の、前詞に「歳暮」とある一節からの一文である。『曠野』には「ふるさとや臍の緒に泣年の暮」とあり、『こがらし集』『笈の小文』(おいのこぶみ)『祖翁消息写』などにも収録されている。
元禄元年冬の作で季語は冬籠り。久しぶりにこの草庵で冬籠もりをすることになった。いつも寄りなれたこの柱にこの冬もよりかかって静かに春の訪れを待とう、と詠んでいる。書は地元の画家濱邊萬吉。
元禄7年秋の作。季語は墓参りである。久しぶりに故郷の盆会に帰り、家族のものたちとそろって墓参りに行った。みると兄妹たちもそろって白髪となり、杖にすがる者もいて、つくづく自分の老いの訪れを知る頃になった、というもの。
元禄7年秋の作。季語は魂祭り、霊祭り。この句は芭蕉の初恋の女性と云われる寿貞の訃報をうけた時の心情をあらわすと云われている。この句碑は京都の俳人落柿舎十二代庵主若生小夜が自費でたてたものである。
肥前の俳人長月庵若翁(芭蕉の直接の門人ではないが、翁を慕って上野へやってきた)の辞世句で、二代目長月庵蓬室が李風らとともに33回忌を記念して弘化3年に建立した。
塩田紅果は芭蕉の生誕地である上野に生まれ、沼波瓊音に師事、昭和2年京都で『蟻の塔』を創刊。この句碑は蟻の塔の門人らが芭蕉翁故郷塚のほとりに建立した。碑石は伊賀市引山系の山ふところの渓流から運んだ自然石である。
野風呂は京都生まれで本名を登という。京大卒業後虚子に師事し俳誌『京鹿子』を主宰する。九園とは師を同じくして親しい間柄であり、その縁でこの碑が建てられた。
貞亨5年春の作で季語はさくら。竹人著『蕉翁全伝』には、「貞亨五、菅社のほとり薬師寺の会に」という前詞がある。薬師寺月次句会の吟で、「いよいよ春もうららになって桜も咲き始めた。この日はまた都合良く例会も開かれ、よき日に巡り会えたことはこの上ない喜びである」とある。
上野市(現伊賀市)の名誉市民である杉森干柿が米寿を迎えた昭和46年10月に俳句同人らにより建碑された。この句はホトトギスに入選したもので由緒有るこの境内に碑と成ったのである。
同じ場所に由来を記した句碑も建っている。表;建碑の趣旨 このあたりは芭蕉五庵のうち東麓、西麓の二庵(芭蕉高弟窪田猿雖所有)のあった址で芭蕉翁ゆかりの地であります。本会は明治百年記念事業として町内会有志の浄財により翁が元禄七年九月この西麓庵で詠んだ句を句碑に建立するとの由来がある。
貞亨3年春、季語は蛙。芭蕉の代表作であり、蕉風展開の句として閑寂幽玄の句風をうち立てる基となった。深川芭蕉庵での作。古池は、そこにあった杉風のいけすの古くなったものといわれている。(杉風は、幕府の御用商人で魚を納めていた。)
貞亨3年の『花声集』・『頭陀袋』、貞亨4年の『続虚栗』・『芭蕉句集』にそれぞれ載っている。季語はなづなの花。自然の恵みはかくも小さな花草までいきわたって何とも微妙な美しさである、と詠っている。
元禄9年1月7日の夜、土芳の師弟たる広岡雪芝が祖母の88才の祝宴を開いたときのおめでたい句とされている。土芳らは正月7日の夜には若菜の会と称して年酒を汲んでいたのである。(芭蕉翁郷土句集より)
蓑虫庵は芭蕉の高弟たる服部土芳が藤堂藩士だった31才の時に築いた庵である。芭蕉は帰郷時この庵で菊度か句会を催したが、この新築祝いにこの句を贈った。貞亨4年秋の作。書は芭蕉真筆の模刻。
碑傍の説明書きには「伊賀の生んだ俳聖松尾芭蕉翁は敢国神社への敬慕の念を深く心の奥に蔵していたとみえ、折々参拝されました。その時この句を詠まれました」とある。貞亨5年春の作。
昭和56年12月、上野市観光協会会長(当時)今中原夫氏の発起により建碑。この句は初期に詠まれた句で、貞門俳諧の影響がみられる。謡曲「鞍馬天狗」の一節「奥は鞍馬の山道の、花ぞしるべばる。こなたへ入らせ給へや」にかけたものとして知られている。寛文3年秋の作。
旅館ふじの主人であった岡本重光氏が、翁の地元にちゃんとした句碑がないことを恥じて、俳人加藤楸邨氏の揮亳を乞い建碑した。書は俳人加藤楸邨。通称藤花塚。元禄元年『笈の小文』(おいのこぶみ)の旅において丹波市あたりで詠んだ句。貞亨5年春の作。
橋本鷄二は上野に在住、当地を代表する俳人して有名である。本名を英生といい、年少時より句作に親しみ、高浜虚子の薫陶を亨けた。この句碑の由来は碑陰の一文を参照のこと。
この句は服部土芳の『蓑虫庵集』にあるもので、宝永6年なつのこと西連寺へ墓参りに訪れた土芳が、寺の床の間に「無常迅速」と題した、芭蕉のこの句があるのを知って詠んだという。
椿の花の落ちこぼれたのを見て、古歌の梅を鶯の花笠と言い習わしていることを思い出で、それを契機に発想した句。笠を被る、とか縫ふ、とかいうのではなく落したる、と案じかえたところに俳諧があったのである。『猿蓑』『泊船集』『笠の影』にでている。元禄3年春の作。
甲子吟行の句の前詞に「奈良へ出る道ほど」とあり、伊賀上野から奈良街道を西へ笠置、加茂の辺りから奈良へ出るときの吟である。碑の左下には「芭蕉庵桃青」と刻んである。『野ざらし紀行』の本文そのままである。
寛文12年秋の作。今、この地を離れて遠く去るが、これは雁が遠く生き別れるように雲を幾重も隔てた別れであろう、の意。留別の意を帰雁に寄せたものとすると、芭蕉の俳句の中で心境を詠ぜんとして最初のもの。俳諧師を志し江戸に下る際詠んだと云われている。
貞亨元年秋の作。江戸に出て、新しい俳句の道を切り開きつつあった芭蕉だが、何かが足りないと感じていた。そこで尊敬する西行や宗祇のように旅で自分の俳句を磨こうと決意した。
貞亨3年春、季語は蛙。芭蕉の代表作であり、蕉風展開の句として閑寂幽玄の句風をうち立てる基となった。深川芭蕉庵での作。古池は、その頃あった杉風のいけすの古くなったものといわれている。(杉風は、幕府の御用商人で魚を納めていた。)
貞亨4年冬の作。『野ざらし紀行』から帰ってからの芭蕉は名声を高めたのだが、貞享4年再び旅立ちの決意をする。その餞別の句会で詠まれた句。「しぐれ」は漢詩の世界では無常なもの、定め無きものを表すが、今度の旅もその心境であると言うことを強く表現した。冬の作。
元禄2年、『奥のほそ道』旅立ちを決意した芭蕉は、深川の草庵を人に譲り隅田川を船で上り、千住あたりに上陸した。その地でみちのくへの前途3千里と、親しい人々との別離を思い詠んだ句。
『奥の細道』中の佳作。元禄2年夏、山形市北部にある山寺立石寺で詠まれたことは有名。夏の作。季語は蝉。「奥の細道」の旅で山形の立石寺に詣でた時の吟。辺りはひっそりとして何の音も聞こえてこない。ふと耳をすますとどこからともなく蝉の聲が静かにじっときこえてくる。
芭蕉の最後となった今回の旅では身の老衰を感じることが多かった。この秋はどうも調子が悪い、なんでこうも年をとったのであろう、と「この秋は何で年よる」と詠んだ。元禄7年秋の作。
元禄7年秋、伊賀から大坂への旅立ちを心配そうに見送ってくれる人々への留別吟。「手をひろげる」は掌をひらく、という意。山里とはいえ伊賀の9月は「行く秋」にはまだ早い。芭蕉はあえて惜別の情をこめてこの言葉を使ったのであろう。
「此秋は何んで年よる雲に鳥」と詠んだ後、芭蕉は病に臥せる。当初大坂本町の芝道の亭にいたが、そこでは門弟たちが看病するのに狭いと言うことで南久太郎町御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷に移った。元禄7年(1694年)10月5日である。
傍らの標石に「元禄六、文月七日の夜、風雲天にみち白浪銀河の岸をひたして、鳥鵲も橋杭をながし、….とある芭蕉翁銀河雨中の吟の真跡をもって之を刻む 原本天理図書館綿屋文庫所蔵 昭和六十三年十月十二日建立、俳文学会員山本茂貴 撰書」とある。
五月雨で見馴川も大変水かさが増して渡るに浅瀬が判りずらい。五月雨でさえ雨足で瀬踏みしているようである、の意。大和名所の見馴川と見慣れた川をかけている。寛文10年より前の作と推定される。句碑の書は芭蕉記念館館長、山本茂貴。
元禄3年芭蕉47才の作品で、『花摘』に、「うつくしきかほく雉の爪かな と申たれば」と前書して載っている。古来あわれなるものとして知られる雉ではあるが、それが蛇を食べるのだと聞くと哀れな中に恐ろしいものが感じられる、という意。
元禄3年の作で、ここに八重桜があったとのことで訪れた芭蕉がすでに枯れているのを知り詠んだ句といわれている。「いがの国花垣の庄は、そのかみ南良の八重桜の料に附けられけると云傅えはべれば」と前書して『猿蓑』の載っている。書あは芭蕉真筆の模刻と推定される。
柏翠はホトトギス派俳人で虚子の愛弟子であり、『花鳥』の主催者。芭蕉を生んだ伊賀の地を愛し、菊山亨女主宰の「一目の居句会」の指導を毎月行った柏翠のために同会結成の記念に建てた。句碑除幕に際しては記念として八重桜の下で句会も催された。
傍らの標石には、俳聖松尾芭蕉翁句碑建立 揮亳 上野市長豊岡益人 顧問 市議会建設水道常任副委員長松本隆利 古山地区委員長宮脇実 発起古山老人クラブ会長中島安之助 副会長松下鹿三 委員 竹野房雄 田中繁二 山下繁信 東亥之介 北浦熊太郎 昭和三十九年六月十とある。
土芳は芭蕉門人第一人者と云われるが、この句は土芳が元禄11年夏、伊賀市種生の草藁寺跡をみて詠んだものと云われている。森二つとは、この垂園森と北にある哀園森をさす。
自分は君へのもてなしによい物を見せよう。君は炉のどんどん火を焚いてくれ。私は庭先の雪で雪丸げ(雪ころがし)をこしらえて見せよう、の意。雪の中を訪れて喜び弾んだ気持ちが自ずと対詠体になって流れ出た発想の仕方である。『笈日記』『続虚栗』などにでている。
甲子吟行の句の前詞に「奈良へ出る道ほど」とあり、伊賀上野から奈良街道を西へ笠置、加茂の辺りから奈良へ出るときの吟である。碑の左下には「芭蕉庵桃青」と刻んである。『野ざらし紀行』の本文そのままである。
『後の旅』『泊船集』にでている。元禄4年の作。こばらしにかすかな匂いがするのはこの帰り花がつけたものであろうか、の意。帰り花とはその季節でないのに咲く花。大垣の門人の別荘で即座に詠んだ句。
四十雀が勢いよくやってきた。この鳥は四十すなわち初老の名が有るとも知らずまこときびきびと若々しいことだ、という意で、自省述懐の心が込められている。『初蝉』『木枯』『続猿蓑』などにでている。
影待の座に田楽の接待があった。見ると庭前は菊の盛りのこととて菊の香りがこの豆腐田楽まで届くようである、の意。影待の楽しい座の気分に心がはずんでいる気持ちが菊の香のする豆腐串と発想されたもの。江戸深川の門人宅での吟。
ひばりがさえずり続けている間へ、雉の鋭いけんけんという声が時折鳴き入って、あたかも拍子のように感じられる、という意。『猿蓑』『陸奥千鳥』『泊船集』にでている。
通称山里塚。句碑の碑文は芭蕉の」真筆を拡大し刻んだもの。句は元禄4年正月、伊賀での作。『芭蕉翁全伝』に「橋木子の会に」と前書して出ている。また『笈日記』には春の部として載っている。山里(ここでは伊賀をさす)には万歳の回ってくるのが遅い、の意。
この句は初期に詠まれた句で、貞門俳諧の影響がみられる。謡曲「鞍馬天狗」の一節「奥は鞍馬の山道の、花ぞしるべばる。こなたへ入らせ給へや」にかけたものとして知られている。寛文3年秋の作。書は全日本教育書道院会員、柴田仙舟。
元禄7年冬の作。待ちかねた新両国の橋がようやく竣工したので誰も彼も出てきてこの清らかな霜の置いた橋をまるでおしいただくような気持ちで渡っている、との意。『泊船集』にでている。
五月雨で見馴川も大変水かさが増して渡るに浅瀬が判りずらい。五月雨でさえ雨足で瀬踏みしているようである、の意。大和名所の見馴川と見慣れた川をかけている。寛文10年より前の作と推定される。
明治26年10月の200回忌に建てられた。碑の筆は晋永機による。句は貞亨4年12月の芭蕉帰省時に詠まれたもので、『笈の小文』(おいのこぶみ)『曠野』『泊船集』『千鳥掛』などに載っている。通称臍緒塚。建立者の松尾徹斎は郷土史家。通称蕎麦塚。句は元禄7年9月3日の作。
草にもいろいろな種類があって、各々花を咲かせ妍を競っている。この花はそれぞれの花の手柄ともみられるであろう、という意。留別にあたって送別の会を開いてくれた人々に対し挨拶の心をもって詠んだもの。貞亨5年の作。『笈日記』『泊船集』などに収録。
入口には猿蓑塚という標石が建っている。建立者の遅月宗雨はこの村の俳人。句は元禄2年9月下旬、伊勢から伊賀に向かう山中で詠んだもの。『卯辰集』『猿蓑』に収載。初時雨で濡れた猿と自身の侘びしい姿を重ね合わせている。
近年この句碑建立の由来書が見つかった。それによると建立者長月庵和翁の直筆で「俊乗の発願した昔のようにお寺が復旧した。芭蕉のかげろうの句をみなに知らせるため、住職が私に筆をとらせた」とある。通称丈六塚。丈六の本尊も今は石台上になく、その上には空しく陽炎が。
隣に南無阿弥陀仏と刻んだ大きな石碑が建っていてそこには嘉永2年とあるのでその頃の建立と推察される。この句は元禄7年2月の作で深川芭蕉案で興行された歌仙の一つ。通称傘塚。元禄7年(1694)春、江戸芭蕉庵で作られたもので、「炭俵」に収められている。句意は「春雨」。
この句碑は菊山九園の筆によるもので地元の俳句グループである「ふきのとう」が建てた。通称枯芝塚。『笈の小文』(おいのこぶみ)に見られる『春たちてまだ九日の 野山かな』と並べて置かれていることから貞亨5年、郷里の伊賀でまだ春も浅い頃に詠んだ句であると云われている。
桑名俳句会としてスタートした天狼伊勢北支部の八風俳句会結成100回目の句会記念として誓子師の句碑が建てられた。誓子が高田本山を訪れて詠んだ10句の中から選ばれたものと云われていて、同寺の縁に入ったときに本堂横の大銀杏を見た情景をよく表した作品といえる。
裸木の句碑は県下で唯一である。昭和8年に建碑されたが当初の位置より少し移動していると云われている。裸木は碑にあるように昭和8年に他界したが俳句結社層雲の同人たちが集まって裸木が当時詠んだ句を石に刻みここに故人を偲んだ。
茨木素因は津幡士茨木家第6代重光である。菊池二日坊と津の俳壇を二分する活躍をした。通称理兵衛で、柴庵、長松下、維山とも称した。建碑は車文で、素因の弟子であった。当院密蔵院の第9代院主である。
この句碑に関しては解釈が問題視されている。「蓬莱」の意味である。「蓬莱」を正月の床飾とする説と、芭蕉と同年代の人物とする説があるのだ。『句選年考』から考えると後者が有力かと思われる。
この句碑に関しては解釈が問題視されている。「蓬莱」の意味である。「蓬莱」を正月の床飾とする説と、芭蕉と同年代の人物とする説があるのだ。『句選年考』から考えると後者が有力かと思われる。
津出身の長谷川素逝が昭和11年、海岸を散歩していた時、北の彼方に上がった花火を見て詠んだ句を刻んだものである。昭和42年、津の俳人仲間が中心となって素逝顕彰会を結成し師を偲んでこの句碑を除幕した。
この句碑は、別に夕立塚ともいわれ、其角の句碑の中でも有名なものである。松阪駅より西へ約10分歩いた右側にある御厨神社の境内に建っている。碑表には、「此神に雨乞する人にかわりて」と前書がある。
この碑は、前記御厨神社より西へ約15分ほど行った薬師寺の境内に建っている。高さ約2メートル38センチ、幅約37センチ、厚さ約18センチ程の細長い角柱の碑である。句は中央に一行で刻まれ、碑陰には何も刻字がない。だからこの句碑は、いつ頃誰れが建てたものか不明である。
この句は、昭和19年春当地で詠んだもので、『鑑賞の書』(山口誓子著)に次のようにある。 句集『激浪』所載。昭和19年4月19日の作。私は伊勢の富田の海岸で生を養っていたが、病人とて凝っとしてはいられない戦中で、本居宣長の旧居を見るために松阪へ行った。
この碑は、寛政5年芭雀翁の百回忌に松阪の俳壇一葉庵社中が、矢川の遍正院境内に建てたもので、追悼の俳筵が開かれた。その後移設され現在の場所にある。通称雪竹塚。天保14年冬、当時の俳句結社一葉庵社中は、翁の百五十回忌の追善句会も催した。
この句碑は、天神菅相寺境内で西を背にして建っている大きな碑である。『松阪文芸史』(桜井祐吉著)によると、この句碑とは別に以前宝暦三年頃、梅輩、梅斧の二人が建碑した碑があったということである。
この句碑は、『松阪の文学資料選集』並びに『勢国見聞集』(碑の部)に、それぞれ紹介されている碑である。それによると、野村赤城山に存するようにあるが、現在は野村町の青龍寺境内左隅に建っている。写真のように碑の中央が円形になっており、碑は三行に右から刻まれてる。
伊勢外宮神苑勾玉池のかたわらの茜神社の社殿左そばに建っているがこの池は四季を通じて詩情豊かな景観を呈する名勝地として知られ、春はハス、秋は紅葉、冬は雪景と、変化に富み古来より吟行の素材に事欠かない地として親しまれている。
椿堂は本名徳田時生 通称長兵衛といい、宝暦8年生まれ。桜木町に住み、長峰とも号し、一黙庵を結んだともいう。俳諧は尾張の井上士朗に師事し当時(文化文政頃)県下では四日市の鈴木李東、松阪の浅原推己らと南勢地区の重鎮として活躍した。
芭蕉没後61年の宝暦4年10月、温故が雁路・和鈴等の協力を得て、新風館曽北の秘蔵の芭蕉吟『木槿』の眞筆を埋め、西行谷の松樹の下に建立したもの。昭和の初期には辻久留町の威勝寺跡にあったようだが、その後一時行方不明となったが、現在は市立図書館中庭の豊宮崎文庫跡にある。
この句碑は一般に何木塚と呼ばれている。貞亨5年如月の末、芭蕉が伊勢に詣でての感詠吟で、『枇杷園随筆』に、「貞亨五とせ如月の末伊勢に詣づ、此御前のつちを踏むこと今五度に及び侍りぬ。さらに年のひとつも老い行くままにかしこきおほん光もたふとさも、猶思ひまされる」とある。
華明没後10年忌として明治18年3月に門人高部移水らによって建てられた。碑表には太く夢々翁と刻み、裏に句が記されているが判読できないほど風化している。筆跡は同市尾上町の富沢融風といわれているが確証はない。
この句には前書に「天文5年春、公のひまによみかける」とあり守武64才の作品。『俳祖守武翁建碑記念集』によると、「・・・俳諧先賢の遺芳を後昆に伝える不滅の施設として神宮に奉献し、…」とある。
誓子が伊勢の赤福本舗を訪れた際に詠んだ句。毎朝4時に起きかまどの火を焚く。土間の梁に巣を作っている燕も目をさますだろう、と解説している。(誓子句碑アルバムより)なお伊勢市内には誓子の句碑は4基存在する。
寛政10年10月地元の俳人不除軒佐藤幹員が深山に樹木の化石を得てそれに芭蕉の秋風吟を刻み長峰の白寺境内に建立したもので、一般に秋風塚と呼ばれている。この句は芭蕉が参宮の途次、中村枕返しあたりで詠んだものと伝えられている。
明治13年の廃寺によってこの地へ移転されたものといわれている。当時の消息を知る建碑記念録『蘇鉄塚句牒』は散逸して今は残っていない。この作品は貞亨元年とも元禄2年の作ともいわれている。
久昌寺の本尊阿弥陀如来は承久3年に造られたがその750年の記念事業として建碑された。誓子の著書『四季吟行』の「伊勢行」にこの句碑のいきさつが詳しく記されている。「…私も平家の末裔である。蛙よ、私をあやしまずに鳴き続けよ、というのだ。」
平清盛の四男、知盛は壇ノ浦で源氏に打たれ自害したと一般に言われているが、伝説に拠れば生き延び、伊勢神宮につながる前山というところに一時住み、のち鷲嶺を越え、覆盆子谷に逃げたという。死後御堂を建てその霊を弔ったのがこの久昌寺創建のいきさつである。
奥羽、北陸の旅を終え、自分はいま。曾良ゆかりの大智院に身を寄せているが、この深い秋の寺の静けさの中にひたりきり、世を憂いて観ずる心を、さらに透徹したさびしさとして深めたい、と思うの意。『曾良随行日記』によると元禄2年9月6日からここに3泊した。
美濃の門人谷木因とともに多度神社に詣でた時の落書であり、『笈日記』にも出ている。句碑建碑記念集『落葉川』によると、芭蕉の多度来訪(元禄2年)から満80年を経た明治6年10月12日、恵方庵富無三が建立し、供養手向の句宴が盛大に行われた、とある。
昭和25年作 「あまりに高く」の措辞に当時漂泊の身であった作者の胸中を察することができ普羅晩年の代表作の一つに数えられる。前年、普羅は長年居住した富山を退去。門人であり心の師であった長屋佳山の龍雲寺に身を寄せ、門前に普羅庵建設の計画を立てるが、諸般の事情で実現せず、昭和25年春に東京へ転じ、同29年没する。鼎の地をこよなく愛した普羅の没後20年、ますます追慕の念深き佳山禅師が境内に建立した句碑である。
昭和23年作 「7月28日伊勢龍雲寺を出で、美濃国境を越へ関ヶ原に向ふ」の前書きがある。当地へ二度目の来遊の折の作。富山の仮寓に帰るべく徒歩で関ヶ原を目指すと、あたかも昆虫の「ミチオシエ」が、富山への道順を教えるごとく先導役をつとめた。孤独な仮寓に帰ることのうとましさと、龍雲寺に後ろ髪を引かれる思いがあっての作品である。次第に形を変えて遠ざかる藤原岳は、員弁の地の象徴として普羅の心に深く刻まれた。
内藤まさを氏は三重俳句の主催であり時折この地で俳句吟行も行っている。句碑のある北河田橋の下を流れる川は透き通るほどの清らかさで静かに流れ、時には山間に滝の流れの音が反射し、あるいは蝉の声が響き聞こえてくるのである。
日置てい女は、旧梅戸村肝入職人藤吉の娘で、18歳の時美濃の俳人魯松庵に伴い美濃赤坂から北超に行脚し、加賀千代を慕って展墓、加賀侯に謁し、伊勢の千代と激賞され徳川侯にも激賞された。号を梅仙といい、安政6年7月4日33歳の若さで没しその活躍を惜しまれている俳人である。
芭蕉は長島遠浅の大智院、桑名の本統寺にしばしば滞在したが、その折りにこの地まで足をのばし詠んだ句であろうか。元禄7年の作で『泊船集』『炭俵』に出ていて「重三」と前書して 青柳の泥にしだたる塩干かな、とある。
芭蕉がこの地を訪れた確かな記録はないがこの句は貞亨4年門人孤屋が芭蕉庵を訪れたときの句作(続虚栗)中の一節である。また笈日記にも『雲雀ふたつ』と前書きしてこの句を載せている。
七草は本名を雄吉といい、産婦人科医でありながら「ホトトギス」に出句、のちに「馬酔木」に入会し句歴を重ねた。30年には「四日市馬酔木会」を結成し、36年には「馬酔木」同人に推挙された。
まさをはこの句について、60年近く住んだ四日市が戦災、水害、公害などで苦しんだが最近では植樹なども行われるようになったことを喜び、わかりやすい俳句としてこの句碑に選んだ、と『冬椿』で述べている。
丹羽文雄は地元出身で早稲田大学在学中から文筆活動を始めて、文化勲章も受けた四日市市名誉市民である。句碑は四日市市市政90周年記念事業として昭和62年5月23日に除幕。文雄36歳頃の作品といわれ、自筆の毛筆墨書を拡大したものである。
誓子に心酔し「天狼」の同人となった幽鳥唯一の句碑である。幽鳥一周忌の編された句集『花桐』に収録。幽鳥は本名を由松といい、昭和7年より句作を始め、「天狼」での執筆と同時に「かいつむり」、「冬木」などでも活躍。
『芳野紀行』の旅で、芭蕉は名古屋、桑名、四日市、鈴鹿を過ぎ日永の里で馬を雇い杖衝坂にさしかかった。その時不覚にも「荷鞍うちかへて馬より落ちぬ」とあり、苦笑して即吟一句を成した。
『誓子句碑アルバム』には下記のように説明がある;外に出て露けき中でお祈りをした。合掌し、その手を唇に近づけたので指の先が唇に触れた。私はその指先を感じながら祈りを続けた。句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ祷りの指を唇に触れ 誓子」と刻まれています。
「私が始めて菰野の句会に出席したとき、暮影・師走両氏のほかに、中山竹旬子、小倉洋子、加藤石泉、南川鏡水ら地域を代表する凛々の我楽多メンバーが顔を揃えた。……その後も毎年菰野の地を訪ね湯ノ山での泊まりを重ねた。
誓子の『句碑をたづねて』には以下の紹介の一文がある。ロープウエイの山上駅から見ると、谿をへだてて鎌ヶ岳が見える。雪が積もっているからてっぺんから山裾まで真白だ。そして美しい三角形をなしている雪嶺のこの大三角形を土地の人は『鎌』と略称して親しんでいる。
『山口誓子集』には、「鈴鹿山脈には山々が群がっているが、その中に雪を戴いた嶺が山系をなして、連なっていた。鈴鹿山脈にもシエラネバダ(積雪の山脈)があるのだ。」と書いている。
この句碑は朝明渓谷に建てられたが、古来より歌にもよく詠まれている美しいところで谷川の音も聞こえる。碑は内藤まさを氏の指導を受けた記念に左記俳句会の有志が建てた意義深いものである。
句碑のある県民の森は、ふるさとの緑を守り育てることを目的として開催されている全国植樹祭の三重県会場となったところであり、昭和55年に昭和天皇・皇后ご夫妻を招いての記念式典が行われている。誓子のこの句はその記念と県民の森の精神を強く訴えかけるものである。
句碑のある大羽根園は、経済成長に伴い四日市市のベッドタウンとして三交不動産が開発・造成した宅地だが、誓子はこの地で当社創業15周年を記念してこの句を詠んだ。また誓子は同社の社歌も作っている。
昭和36年8月の御在所岳山頂での句碑除幕式の翌月、御在所岳観月会に招かれたがその折り、明福寺住職加藤守に招かれその寺により、秘伝の円空仏に出会った。この句はその時に見た仏像から得た感銘を詠んだものである。『真珠』中の「菰野円空・志摩円空」に記述がある。
甲子吟行の句の前詞に「奈良へ出る道ほど」とあり、伊賀上野から奈良街道を西へ笠置、加茂の辺りから奈良へ出るときの吟である。碑の左下には「芭蕉庵桃青」と刻んである。『野ざらし紀行』の本文そのままである。
京都の元大日本武徳会武道専門学校長鈴鹿登の作品から、演武場にふさわしい句を選びそれを石に刻んだといわれている。野風呂は鈴鹿の雅号である。昭和43年春に亀山演武場開場満103歳を記念して句碑も建てられた。野風呂は本名鈴鹿登。俳誌『京鹿子』を主宰。
貞亨元年の作品で『笈日記』『三冊子』『甲子吟行』などに載っている。芭蕉が雪の降る蛭子神社の祭りの際、当時鍛治町にあった栄林寺の門前で詠んだということになっているが、実際は名古屋の俳人抱月のもとで雪見の句として詠まれたもののようである。
宮城きよなみは本名皎。明治35年生まれで伊賀俳壇を代表するホトトギス派の俳人である。この句は名張川の清流が解禁により釣り人で連なっている様子を詠んだ。「おきつも句会」が氏の功績に感謝して名張川を見下ろす所に建てた。
寛政5年(6年説有り)に名張郷の俳人たちによって翁百年忌として建てられた。碑石はたたくとかんかんと金属のような響きがする珍しいもの。初めは街道道端にあったものが移されたと云われている。同じ句を刻んだものが伊賀市古山外市場寺にもある。通称雲丹塚。
旅の途次の静岡県大井川付近で作ったと云われ貞亨元年『甲子吟行』にでている。また『野ざらし紀行』には「眼前」と前書して載っている。句碑の建碑に関しては逸話も多々あるが正確なところは不明である。
寺島香素は地元一志町高野に生まれ、明治29年「愛風社」なる俳句会を創り月次句会300回に及んだという。俳句や和歌は高野区内に石で刻んで9基残されている。この墓碑をはじめいずれもその由来を記し、句や歌を最後に添えている。
寺島香素は地元一志町高野に生まれ、明治29年「愛風社」なる俳句会を創り月次句会300回に及んだという。俳句や和歌は高野区内に石で刻んで9基残されている。この墓碑をはじめいずれもその由来を記し、句や歌を最後に添えている。
隣には2基の高野井完工碑がある。碑表にあるように昭和8年に高野浄水場のもととなる取水施設の完成の記念に建立された。ちなみに山中兵助為綱は津藩士にして高野井水路を開き家城の水害を防いだとされている人物である。
この碑の由来は『師弟連歌由縁記』に記述あり。向陽の弟子である麦村が師の風雅素懐の一片を世に残すべくいしぶみにえりて、とある。
この句は伊勢の神境を表徴する名吟といわれた俳祖荒木田守武の代表句である。この碑面の句は守武64才の時の作品で「天文5年春奉公のひまによみる」と詞書がある。
小園汲古は寛永年間に多気町三疋田に生まれ、通称荘五郎といい、汲古と号した。俳人であると同時に情け深い人物で、私財を投げ打って公益につくし里民に金品を恵み助けることもあった。彼の旧恩に感じた里民はその邸内に碑を建てた、と言われる。
文化12年7月、船江の俳人春湖らが協力して建てたもの。一般に若葉塚と呼ばれている。記念句集『若葉集』にいきさつを伝える一文がある。この句は元禄元年芭蕉がこの地に来遊の折り、船江の大江寺二疊軒にて吟詠したとされている。
内藤まさをは県下俳壇のリーダーとして活躍し、各地に句会を持ち、後進のの指導に献身的な努力をしているのだが、句碑は県下に10基あり、この地にはこれ1基のみである。昭和41年5月、三重俳句会同人であった住職星見一村ら多くの協力でこの碑が建てられた。
この句碑は一般に涅槃塚と呼ばれている。風化して読みづらいが、『増補伊勢山田句碑集覧』(岩出甫石稿)によった。この句は貞亨5年2月、芭蕉が伊勢参宮した折りの作品で、『笈の小文』(おいのこぶみ)にあり、「おなじ春ならん何かし寺に詣でて」と前書がある。
『増補伊勢山田句碑集覧』(岩出甫石稿)によれば、寛文2年正月板行の『伊勢正直集』(如之編)巻六の中に 朝熊山呑海院にて 海をのむ子や富士の雪餅 泥福 という句をみるという。
元禄2年の作といわれている。『芭蕉翁真跡集』に「ふたみ」と前書きし、また『泊船集』には、「二見の圖を拝み侍りて」と前書きし、この句が出ている。副碑には次のように記されている。「芭蕉は江戸元禄記の俳人で伊賀上野の出身です。西行のゆかりを慕って二見浦にも足をはこびました。」
年が改まって清く明るい元日の朝日がさんさんと射している。あたかも二見のシンボルである夫婦岩はもとより二見全体を押し包み、祝福しているようであることよ、という意であり、自筆で刻まれている。青畝の句碑は全国に52基あり県下には名張市とここの2基がある。
梥雄は森川許六を祖とする五老井八世で正風俳諧継承者の一人である。万延元年滋賀県に生まれ、無々庵とも号して全国各地で俳句に遊んだ。この句は二見浦の美しい日の出を詠んだ句だが上部が欠落し字も読みにくい。梥雄の句碑は県下では白子にあるものとで2基現存するのみである。
『誓子句碑アルバム』には次のような説明がある。「鳥羽の商船学校の奥にあったあの浦は、昔から伊気の浦と云っていたが、その浦の口に飛島といふ島が飛び飛びにならんでいる。大と小、大と小、大と小親子の島である。池の浦荘から飛島はあますことなく見えた。
この句は貞亨4年冬の作品で『笈の小文』(おいのこぶみ)の旅で社国を訪れた際、伊良湖岬に遊んで詠んだ句とされている。渥美半島伊良湖岬にも同じ句を刻んだ句碑がある。
この句は元禄元年の作品で『笈の小文』(おいのこぶみ)にでている。須磨にて詠んだと云われている。この地に何の因縁があり句碑が建てられたかは不明である。全国に同様な碑があるが、それは芭蕉の偉大さと人気を物語っているのであろうか。
『誓子句碑アルバム』には「志摩賢島のホテルに新館が建って、その高い屋上から先志摩半島を眺め見渡した。その半島は船越のくびれから西へ長く突き出ている。その半島を表現するのに私は固有名詞を使わず、志摩の横崎と云って長く横たわる半島に雲の峯が立っていた。
紀北地方で俳句の指導にあたっていた哀耳の句碑は町内に3基ある。これははまゆう会が建立、除幕式には誓子、まさをら約100名が参加して行われた。この句は天狼時代昭和23年の作品で『哀耳俳句全集』の「微粒」に収載。
山口いさをは『菜の花』を主宰し県北部を中心として活躍。句碑建立には許可が下りず両親の遺骨と毛髪を納め、菜の花の生々発展の祈願塔にする、ということでようやく建立に至った、と俳誌『菜の花』に当寺の丹羽住職が寄稿している。