俳句リスト

50件の俳句が見つかりました
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
冬牡丹千鳥ほととぎす

この句は、「野ざらし紀行」の旅の折、貞亨元年の晩秋に大垣の俳人木因と共に本統寺第三世大谷琢恵(俳号古益)に招かれた際、一夜を過ごして詠んだといわれている

山車統べて鎧皇后立ち給ふ
山車

『桑名好古会報』の「船津屋橋」(葛谷たけし)にも著されているが、誓子はよく桑名を訪れた。そうした因縁で同地の門下生が建立した。

水神に守られ冬も大河なり

絲遊俳句会は桑名市内の俳人グループで同会が誓子氏の指導を受けて十年の記念に建てた。

かはをそに火をぬすまれてあけやすき
あけやすき

泉鏡花の『歌行燈』の舞台である桑名の船津屋の入り口に『歌行燈』をしのんで詠んだ句である。

松頼もさくら吹雪も濠を越す
さくら吹雪

暁帝は度会郡滝原町に生まれ昭和36年より「揖斐くらぶ」を主宰。

大河越え尾張にひびく祭太鼓
祭太鼓

詳細な解説はありません。

明ぼのや白魚しろき事一寸
白魚

白魚塚と呼ばれているこの句碑は昭和39年故河野一郎建設大臣によって建立された。筆は桑名神社に奉納されて現存している白魚短冊を引き延ばしたもの。

闇の夜や巣をまとはして鳴くちとり
ちとり

この句のある白魚塚の前は海岸で白波がたちその当時は千鳥が鳴き群がっていたであろう様子が想像される。

雪薄し白魚しろき事一寸,白うをに身を驚ろくな若翁
冬,春雪薄し白うを

木因は谷木因といい、美濃大垣の俳人で蕉門の一人。奥の細道をおの旅を終えた芭蕉を大垣より長島へ送ったことで有名。芭蕉とは大変親しかった。なおこの句碑は名四国道開通に際して建立された。

今日斗り人も年よれ初時雨
初時雨

「本願寺の梅花佛鑑塔」この鑑塔(かがみとう)は俳人松尾芭蕉の門弟各務支考の分骨墓である。

塚になけわかなくあとを友千鳥
友千鳥

以前は本統寺に建っていた。高さ2mもある大きなものであり、現在は近鉄名古屋線益生駅近くに移され、俊寛塚とともに整備された。

菊の世や多度も鈴鹿も一かすみ

詳細な解説はありません。

いろいろの草を沈めて秋の水
秋の水

詳細な解説はありません。

平家住みし遺跡を濡らす春の雨
春の雨

詳細な解説はありません。

琅扞の竹ひびかせて木の葉降る
木の葉

詳細な解説はありません。

蛤の宮殿見たり霧の海

この句は「麦林句集」に所収、芭蕉を追慕し白魚の名句に惹かれて、この地を訪ねこの句をよんだ。

冬夕焼山肌にあせ総身燃ゆ
冬夕焼

詳細な解説はありません。

雪の朝めじろ囀る薮の中

詳細な解説はありません。

飛び来る蜻蛉手の上に遊びけり
蜻蛉

詳細な解説はありません。

村しぐれ走る女の素足哉
しぐれ

詳細な解説はありません。

町なかの昔の松の春の暮
春の暮

誓子がかつて病気療養のため富田にしばらく居を移していた時、今は枯死した有名な一本松を詠んだものである。『誓子句碑アルバム』の中に句意を表す一文がある。句碑は富田保勝会によって富田一本松の橋のたもとに建立され自筆の書で刻まれている。

蛤の焼かれてなくや敦公

其角の句碑は県下には少ないが当地の名物焼き蛤を詠んだものとして広く親しまれている。生川益也著の『富田をさぐる』の中に、その句が詠まれたときの様子と考えられている場面が記述されている。

涼しさや松こしに見る伊勢の海
涼し

小波は16歳で『かちかち山後日譚』『一珍可笑夢』を創作し活躍した人物であり、明治期の児童文学の第一人者である。彼は旅を好んだ。日記によると、昭和5年に富田町の伊藤吉兵衛を訪ねた際、富田浜に遊びこの句を詠んだとされている。

三日月の地はおほろなる雪見草
雪見草

凡平によると、『江戸時代にこの寺の裏山が崩れそこにあった芭蕉の句碑も一緒に埋没した』とされている。現存するこの句碑は昭和45年(48年)に本堂改築に際し裏山の整備により発見されたものである。

八方に向き鴨の向定めなし

句は昭和52年作で句集『雪嶽』に収載されている。伊坂ダムでの鴨の鳴き声とその群の勝手なようで統率されているさまを見て詠んだ。

雁ゆくかたやしろ子若松

元禄3年越人の『ひさご』の中の花見の部にでている。曲水、珍碩らと詠んだうちの付句で、この付句を刻した碑としては全国的に非常に珍しい。

菜の花や釈迦の歩みし右左
菜の花

寺の梵鐘のデザインを竜子に依頼したのが縁で、ここに句碑が建てられた。句はインド仏跡巡行の際に詠んだもので、碑は昭和45年に除幕された。

揚雲雀この丘佳しと天に告ぐ
揚雲雀

詳細な解説はありません。

山寺に線香もゆる春日かな
春日

詳細な解説はありません。

寝釈迦像人天蓋の下なるかな

詳細な解説はありません。

分け入っても分け入っても青い山

この句は、『大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。』というように山頭火が味取観音堂を飛び出し、あてもないさすらいの旅に出たときのもの。この句にあるのは、旅への決意、というよりも、むしろ目的なき旅へのとまどいが表現されている。

日の丘に立ちて寥朗の秋を見る

詳細な解説はありません。

菩提樹の緑有縁に蔭與ふ
菩提樹

詳細な解説はありません。

舟漕いで海の寒さの中を行く
冬の海

誓子は四日市の天ヶ須賀に住んだ後、白子にも住んだ。その時舟漕ぐ漁師の寒さを想像して詠んだ句である。門下の俳句結社絲遊俳句会が建設。

潮浴びて海なき懸へかへりゆく
潮浴び

詳細な解説はありません。

噴水高揚る水玉が水玉追ひ
噴水

詳細な解説はありません。

虹の環を以て地上のものかこむ

句碑のある子安観音は誓子が白子居住時に時折訪れ親しんだ地で、昭和47年誓子命名による古風な建物「静思庵」も建っている。

寺の古び月夜のけふのごときはなし
月夜

句碑のある子安観音は誓子が白子居住時に時折訪れ親しんだ地で、昭和47年誓子命名による古風な建物「静思庵」も建っている。

花の香のたえぬ恵みの御堂かな
花の香

五老井は通称庄市といい、明治40年五老井八世を嗣号し、全国の有名な地に句碑36基を建設したうちのひとつである。

雁ゆくかたや白子若松

雁塚と呼ばれているこの句碑は建立年代・建立者ともに不明。この句は元禄3年越人の『ひさご』にでている。

橙や伊勢の白子の店ざらし

詳細な解説はありません。

本堂のみ佛の燈も雛の宵
雛の宵

詳細な解説はありません。

一湾の潮しづもるきりぎりす
きりぎりす

白子の海岸に住んでいた頃に作品で、『鑑賞の書』には、その海岸の風情を表した一文がある。誓子は、妻の山口波津女とともに昭和23年から28年まで舞子館南約300メートルのところにあった海荘に住んでいた。

天人もおりよつつみの浦の夏

十湖はよく県下を訪れ、二見や伊賀などにも句碑がある。

海に出て木枯帰るところなし
木枯

詳細な解説はありません。

升かふて分別かわる月見かな
月見

門人・支考の俳諧撰集『笈日記』には「住吉の市に立て・・・」の前書きから、芭蕉が住吉明神に詣でての作品。元禄7年、長谷川畦止亭の会に招かれた時に月見をかねて住吉の宝の市に出かけ詠んだ句。ふと興に乗じて一合升を買った芭蕉だが体調を崩し畦止亭の13夜には参加できなかった。

きてもみよ甚べが羽織花ごろも
花ごろも

寛文11年春の作。花見の衣として甚兵衛羽織を着てもみよ、の意。来てと着てをかけている。『貝おほひ』に収録。『貝おほひ』は三十番発句合せに自ら自詞を加え産土の天神に奉納したもの。後江戸で出版され、芭蕉の唯一の刊行著作となった。

さまざまの事をおもひ出す桜かな

貞亮5年の作で、『笈日記』『笈の小文』(おいのこぶみ)などに「おなじ年の春にや待らむ故主蝉吟公の前庭にて」と前書きがあってこの句が載っている。若き日の芭蕉は藤堂藩伊賀附の侍大将藤堂新七郎に仕えたが、その家嫡良忠は蝉吟と号し貞門俳諧を学ぶ文学武士であった。

草いろいろおのおの花の手柄かな
草の花

碑文にはレーガン大統領の署名がある。この句は貞亨5年秋の作。『笈日記』に「その年の秋ならん、この国より旅立て 更科の月みんとて」とある留別の四句の一句である。貞亨5年秋の作。

古里や臍の緒に泣くとしのくれ
年の暮

貞亨4年12月に芭蕉が郷里に帰ったときの吟で、『千鳥掛』中の、前詞に「歳暮」とある一節からの一文である。『曠野』には「ふるさとや臍の緒に泣年の暮」とあり、『こがらし集』『笈の小文』(おいのこぶみ)『祖翁消息写』などにも収録されている。